今年の城巡り初め②
今回は『今年の城巡り初め②』として、1月2日に行った「岡山城」と「後楽園」をアップしてみたいと思います。
岡山城の堀とそこにいた白鳥と鴨です。餌場があるということは、この堀で保護されているんでしょうね。
正面の門を潜ると・・・・
石段を少し上がった二の丸には「表書院」の址と「月見櫓」があります。「表書院」は岡山藩の政治を行っていた所、藩庁ですよね。
ここには、藩主が政務を行った所や祐筆の部屋、家臣の侍が控えていた所があったようです。
これは「月見櫓」です。説明によると城外の見張り櫓としてだけでなく、文字通り「月見」やその他の宴の場としても使われていたようですね。
復元とは書いてなかったので、現存の建物だと思います。
さて、この石段を上がると・・・
岡山城の天守が見えてきました。天守正面の広場は御殿があったんでしょうね。高知城以外の私が巡った城は天守の正面が広場になってる城ばかりでした。すみません、ちょっと地元の城自慢をしました(笑)
城の中に入るといきなり豪華な籠が目に飛び込んできました。この籠は乗ることができて写真撮影もOKだそうです。もちろん、一部の展示品を除いては、ほとんど撮影NGですけどね。今治城もそうですけど、こういう復元天守は城の博物館の役目も兼ねてる城が多いように感じます。
復元天守なので、階段もフツーのビルの階段みたいです。岡山城も戦前は現存天守だったと聞いてます。現存だったころの岡山城はどんなだったのかな?
豊臣時代から徳川時代にかけての岡山城主の甲冑です。上から、宇喜多秀家、小早川秀秋、池田輝政です。小早川秀秋が岡山城主であったのはたった2年くらいなんですね。この中で一番イメージが悪いんですけどね。まぁ~そこは戦国武将、後世の人間にはわからない事情やしがらみもあったんでしょうけど。そう言えば、池田輝政は姫路城主でもあったんですよね?
天守からの眺めです。
岡山城を出て、後楽園に移動する途中の景色です。城の下を流れているのは旭川という川です。堀だけでなく、この旭川も岡山城の防御の一つだったんでしょうね。
後楽園に来ました。岡山城を出て徒歩5分くらいです。
冬だったので、芝生が茶色だったのが残念でしたが、庭園自体は見事なものです。「日本三大庭園」と言われてますよね。ここ「後楽園」と金沢の「兼六園」と・・・・あとひとつはどこでしたっけ?
もちろん、岡山城の「御城印」カードも購入しました。御城印の四隅には歴代の岡山城主の家紋があしらわれてます。左上は宇喜多家の旗印、右上は宇喜多家の家紋、左下は小早川家の家紋、右下は池田家の家紋だそうです。宇喜多家は家紋と旗印の両方があしらわれてるということは、やはり、岡山城は宇喜多の城というイメージが強いんでしょうかね?宇喜多家も「かたばみ紋」ですか!長曾我部家も「かたばみ紋」なんですよね。なんだか、親しみを感じます。ともに西軍(豊臣)だったし。
あとは、おふくろが「岡山に行くなら買ってきて」と言っていた、きびだんごを買って帰りました。
以上、『今年の城巡り初め』でした。
この記事へのコメント
日本三大庭園は後楽園(岡山)、兼六園(金沢)、偕楽園(水戸)ですね。大洗を聖地巡礼する際は水戸が拠点になるでしょうから、城跡・藩校弘道館と共に偕楽園にも是非。ちなみに偕楽園名物は梅です。
飛騨最後の夜は、おせち料理の残党退治。明日は親戚のクルマで富山空港まで送ってもらい帰京します。富山きときと空港と言うらしい。富山弁で「新鮮」という意味だとか。いまいちピンと来ず。神通川の河川敷にある珍しい空港。一時間で羽田に着いてしまいますので、助かります。
いいお正月でした。
あとひとつは茨城県でしたか!水戸の偕楽園、憶えておきます。お答え頂きましてありがとうございます。
名物は梅ですか!もし訪れたらどんな風景が見られるのかな?
お正月、満喫されたようで、なによりです。「富山きときと空港」ですか!なんか、地方空港はそういうのがありますね。高知も「高知龍馬空港」(ちょっと恥ずかしいと私は思ってる)だし、岡山も「岡山桃太郎空港」なんですよね。
外国に「ケネディー空港」とか「ドゴール空港」とか偉人の名前が付いてる空港があるから、それを真似てるんでしょうが、日本にはそういうのは似合わない。
「偕楽園ですよ」ってコメントを入れようと思ったのですが、夜桜お八さまが早かったですね。(笑)
夜桜お八さま
今年の富山の正月は雪もなく良い天気が続いたそうです。
(↑と今日電話した富山の八尾の本家の従兄弟が言っておりました)
富山からの飛行機はちゃんと予定通り飛びそうですよ。
高山から富山に抜ける国道も雪はないのかしら?
お気を付けてお帰りくださいませ。
そう言えば、大洗には田中光顕伯爵縁の『幕末と明治博物館』があるそうですが、田中光顕伯は水戸の思想に大きな影響を受けてると『青山文庫』で聞きました。
堀もねぇ、白鳥や鴨なら問題ないんですが、ヌートリアとかカミツキガメ、アリゲーターガーなんかの外来生物共が入り込むと厄介ですよね。
というか、城の堀にそんなモノ放す奴の気が知れないです(怒)。
この三人では、やはり姫路に馴染みある「池田輝政」が気になりますね。
やはり岡山の土産といえば「きびだんご」ですね♪
そうですね。外来種の繁殖が問題になってますよね。
城の堀に限らず、川なんかもニジマスが外来種のおかげで減ってきてると聞いてます。
カミツキガメなんかは、凶暴で怖いですよね。最後まで飼えないなら飼うな!と言いたいですが、飼う連中はそんなことお構いなしですからね。
無事横須賀に寄港しました。
空港名について余談。鳥取空港は鳥取砂丘コナン空港、米子空港(航空自衛隊美保基地)は米子鬼太郎空港。何とアニメの名前が空港についてしまった。
高山から富山へ行く国道41号線、数河(すごう)峠あたりで沿道に雪が積もっていましたが、路面は問題なし。親戚は元々雪道の運転に慣れているし、クルマは四駆なので余裕綽々。
北陸新幹線開通で東京(羽田)~富山便は減便され機材も小型化。そのため午前便の次は夕刻便というダイヤになってしまいましたが、飛行は至って順調であっという間に東京。ちなみに富山きときと空港は国際空港。今日は大連行きと台北行きが。どちらも戦前は日本でした。
ところで神通川って「じんつう」なのか「じんづう」なのか。地元の方は「じんづう川」と呼んでいるようですが、軽巡洋艦「神通」は「じんつう」なんですよね。大洗ガルパン神社境内に慰霊碑のある軽巡洋艦「那珂」は同型艦です。煙突が四本ある旧式艦。大正末期の就役ですから、開戦時にはかなりの老朽艦だった。
そんなわけで、明日からお仕事です。次の機会を楽しみに頑張ります。
現存天守でも、天守の前は広場になってる城が多いですね。
本来ならそこには本丸御殿と言って、藩主が生活してた屋敷があるはずなんですが、高知城以外は天守があっても、御殿がなかったり、御殿が残ってても天守復元だったり、なかったりしてます。
天守と御殿、両方、昔のままで現存してるのは高知城だけなんです。
私は「神通」は(じんつう)と読みますが、仏教の経文だと(じんづう)と読むこともあると聞いたことがあります。
軽巡の「神通」の場合は海軍が決めた読み方でいいんじゃないでしょうか?
鳥取空港は「鳥取砂丘コナン空港」!?他県の空港名にいちゃもんつけるのもどうかと思いますが、つけりゃいいってもんじゃない!と言いたくなりますね。これなら「高知龍馬空港」はまだかわいいもんだ(笑)一応、アニメのキャラではなく、歴史上の偉人だし(それでも、やっぱり恥ずかしい)。
年明け早々と笑われそうですが、今年末も9連休(爆笑)。クリスマスが金曜日ですから、26日(土曜日)からお休み。ただし令和3年1月4日が月曜日になるので最悪、1月4日が仕事始め。そんな話題を取り上げたくなるくらい、休みが長かった。街もやっと眠りから覚めたという感じです。
八丈島に宇喜多秀家のお墓があります。残念ながら私は行ったことがありません。関ヶ原に参戦した武将たちの中で一番長生きした宇喜多秀家。どんな気持ちで長い戦後を生き、世を去って行ったのか。
誇り高い戦国武将にとって、ある意味、一番屈辱的で残酷な刑罰。
それによると、秀家は関ヶ原のあとは逃亡生活の末、薩摩の島津にかくまわれていたようですね。
家康と島津の和議が成立し、家康に秀家が引き渡され、そのあと八丈島に島流しになってるんですね。
八丈島の海を眺めながら、秀家はなにを想っていたんでしょう?岡山での栄光の日々か?自分を家康に引き渡した。島津への恨みだったか?
昔、岡山市内にある小早川秀秋の菩提寺に行ったことを思い出しネット検索したのですが、瑞雲寺というお寺さんでした。宇喜多秀家が取り潰された後、岡山に封じられたのは小早川秀秋でした。何せ昔のことなので記憶があいまいなのですが、住職様が「小早川秀秋が暗愚だったというのは後世の誹謗中傷だよ」と言っておられたことは覚えています。
彼は関ヶ原の時、西軍に属しつつも、最初から東軍=家康方として行動している。石田三成から見れば正真正銘の裏切者でしょうが、彼自身に言わせれば心外もいいところ。「お前の詰めが甘いから負けるんだよ」と怒鳴り返したかったでしょう。
あの振る舞いを見れば、実際の彼は相当、合理的な判断の出来る人だったのではないかと思いますね。彼自身が仮にノータリンでも、お付きの重臣たちまで馬鹿だったとは到底思えない。岡山城主になった二年後に病死し、小早川家は無嗣断絶。明治になって家が再興されたそうです。
岡山は数年前クルマで呉に行った時に立ち寄り、備中高松城跡、国分寺などを回りました。津山城共々、また行ってみたくなりました。
しかし、晴天の霹靂、本当はだれの子かもわからない得体の知れない子だが、とにかく太閤に子(秀頼)ができた。
太閤は、もうお前たちは不要とばかり秀次は一族もろとも処刑、秀秋は処刑こそ免れたが、小早川家に養子に出された。
そんな秀秋に親身になってくれたのは家康だったと聞きました。もし、これがそうなら、秀秋には豊臣というより秀頼に味方をする義理など、これっぽっちもないわけで、この前、夜桜お八さんから紹介して頂いた、関ヶ原の最初から小早川軍は徳川勢として動いたというのは大いに納得ですし、そんな秀秋を三成は味方の頭数(あたまかず)に入れていたとしたら、三成はよほどのお人好しか、自分(豊臣)の正義を信じて疑わなかった人と言えると思います。
でも、漢っぽいマンガなので、私は好きです。あと、池上遼一さんの『信長』や小山ゆうさんの『おーい竜馬』も好きですね。
仰せの関白秀次も、死後に謂れのない誹謗中傷を浴びせられた被害者です。街で辻斬りをやった「殺生関白」などという不名誉極まりないレッテルを貼られた。あの司馬遼太郎氏までもが、そんなアホ臭い嘘八百を真に受けた小説を書いている(『豊臣家の人々』に所収)。マンガよりひどいですよ。故人の名誉にかかわります。秀次は安土城跡のすぐ隣街・近江八幡城の城主でしたが、近江八幡市民は今でも怒っています、本当に。
秀次だけならまだよい。あの秀次の妻妾・子供たちを公開処刑(大虐殺)した蛮行は何なのか。助命してやるのが慣習だった女性までなぶり殺しになった。絶対に言い訳できない太閤秀吉の失政です。あの事件で、諸大名の心は決定的に豊臣家を離れたと思いますよ。
汚い言葉で恐縮ですが「誰のタネだか分からんガキ(秀頼)のために、家を潰す危険まで冒して戦えるか」ということです。
恐らく小早川秀秋は、秀次と妻妾たちの悲惨な死にざまを見て震え上がったと思う。「次は俺の番だ」と。そして身内を残虐に殺害した叔父(秀吉)もさることながら、その狂った命令を忠実に実行した石田三成ら官僚グループを、心底憎悪したでしょう。
秀秋が西軍として積極的に参戦することなど、あり得なかった。絶対に。仰る通りだと私も思います。三成がいくら「豊臣家の御為」と唱えても、小早川秀秋の心はそれを受け付けるような状態ではなかった。
この岡山城天守は前から好きなんですよね
なんかこのカチッとした感じが何ともイイ☆
宇喜多秀家の甲冑もカッコいい(伊達政宗のそれを派手にデザインし直した様な笑
そしてここは小早川秀秋の居城でもあったんですよね
小早川秀秋…生まれる場所とタイミングが違っていれば「別の人生」を生きられたはずの悲運の人
この人物評で気なるのが、なぜ後世まで「裏切り者」のレッテルを貼られてきたのか?です
徳川家を美化、正当化するのが徳川政権成立以降の「徳川史観」であるとすれば、小早川秀秋は徳川家にとって「美化すべき若き勇将」として語り継ぐべきはずなのです
ところが彼だけがことさら「裏切り者」とのイメージが喧伝された。。
太閤秀吉の血縁でありながら、東軍(徳川方)に付き、絶妙のタイミングで西軍に横槍を入れ戦況を覆した(この合戦の様相は新説の登場で、真偽が怪しくはなってはいますが。。
であれば、徳川史観から見れば彼は「ヒーロー」であり、また関ヶ原合戦を徳川寄りに正当化するための絶好のキャラクター(太閤秀吉をディスり、徳川家を美化するのに最適☆
なのになぜ、裏切り、暗愚、小人物を強調された…?
関ヶ原から、わずか二年で(若くして)病没したというのも、引っかかる
この全体のエピソード…すっきりと腑に落ちてこないんですよね
我々の知らない「何か」隠されている事実があるのでは?と疑っています(小早川秀秋を、ヒーローとする事で、徳川家にとって何か都合の悪い事が?
将来、新たな資料が発見されて、そのあたりの疑問が氷解する日が来ますかね(笑
夜桜お八さんが紹介してくださった事実の通りなら、徳川の一方的勝利で、家康になんのドラマも生まれません。
徳川史観としては、関ヶ原は東軍(徳川方)、西軍(豊臣方)の勢力がほぼ拮抗しているものの東軍やや不利の状況で、逆転のヒーローは神君家康にしなければならない。
そこで、小早川秀秋を優柔不断な武将に仕立て、徳川の再三の寝返り要求にも態度をはっきりさせない秀秋に神君家康が問い鉄砲を喰らわせ、神君家康の威光を恐れた秀秋が急いで徳川に寝返ったということにすれば、まさに、関ヶ原の一発逆転のヒーローは神君家康ということになりますよね。
ゆえに、小早川秀秋の裏切りは家康のおかげ、徳川の勝利は家康のおかげということになり、その引き立て役として、秀秋は裏切り者のレッテルを貼られてしまい。今日まで修正されずにきたと私は考えます。
ちなみに、小早川秀秋の死因は病死だと言われているようですが、その病気も秀秋の裏切りで真っ先に壊滅した大谷吉継の呪いだというオカルト的な噂もあるようですね。
最近は良質史料(信頼度の高い一次史料。軍記物のようなフィクションは論外)に基づく戦国時代史の再検討が急速に進んでいまして、近いうちに通説が大幅に書き換わります。
関ヶ原合戦を「天下分け目の戦い」とする評価自体、実は徳川史観です。実態はそんな大規模な戦闘ではなかった。神君家康公の偉大さを誇張し演出した、徳川幕府の御用学者による創作。それを真に受けた明治期の陸軍参謀本部が『大日本戦史』で実態とかけ離れた戦史を定着させてしまいました。
通説のようですがカンタンなことでして、優秀な行政官僚(今なら各省事務次官クラスの頭脳)だが戦の素人であった石田三成がどれほど頑張ったとて、家康のような海千山千のオッサンに叶うわけがないんです。
西軍の敗因は、致命的な兵力不足と、拙劣な作戦指導。ついでに書くと、宇喜多秀家の率いる宇喜多家は、お家騒動の影響で大幅に戦力が弱体化していた。大坂で急遽、欠員募集を行ったという史料もあります。
小早川秀秋も豊臣秀次も、実に気の毒な人生でした。
本当にそうだと思います。もう一つ付け加えると、美濃まで出陣した毛利部隊(吉川広家と毛利秀元)が家康に実質降伏(戦闘放棄)してしまったことが、西軍にとってトドメの一撃になりました。
三成が西軍旗頭にかついだ毛利輝元自身、戦意に乏しかった。
大垣城に籠もった西軍部隊は、宇喜多秀家(岡山)を除けば中小大名の混成兵団(寄せ集め)です。打撃戦力として余りにも力不足で、実際、野戦に展開して東軍と交戦したらイチコロだったと思います。
最善の努力をした三成ですが、結局、一人相撲になってしまいました。
ありますね、そういうハナシも(笑
秀秋が大谷刑部の怨霊に祟り殺されたかはともかく、特に体調不良を伝えられていなかった秀秋が二十代前半でポックリ逝くというのも…
今で言うアル中の末に…という話もありますが、どうもしっくり来ない
ゲコはどこまで行ってもゲコですし、そもそも「飲める」体質だから酒豪になるわけで。。
秀秋に長生きして欲しくない何者かが「何かした」のではないか?
と勘繰ってしまいます
秀秋が「小早川」となった経緯を思えば、その家中にどれ程「本物の忠節」を持った武士がいたか?…あるいは何者かが今で言う「スリーパーセル」を小早川家中に忍ばせていた可能性を思えば、「暗殺」の可能性を完全には排除できない気がします(気安く陰謀論に与する気はありませんが笑
秀秋の「裏切り者レッテル」に関しては、事実通り?に始めから家康方に付いていた事を宣伝する方が、むしろ神君家康公のご威光を高めるはずでは?…と思うんですよね
つまり…晩年の太閤殿下の暴政の犠牲となろうとしていた若き秀秋を、神君は憐れんで陰ながら支えてやり、秀秋はそれを深く恩義に思った
豊臣家との絆は瘦せ細り、叔父の暴政を遠慮無く執行した奉行衆の増長は、ついに大老筆頭である神君家康公への「叛逆」に至り、豊臣家の施政と権威は地に堕ちた
事ここに至って、秀秋は秀吉亡き豊臣家の凋落を悟り、神君家康公の馬前に立つ覚悟をした
…という「筋立て」の方が、よほど豊臣家を貶め、家康を高めるのではないかと考えるんです
豊臣家の「身内」がその豊家を見限って家康に付くわけですから、政権簒奪の正当化にはこの上ないエピソードとなり得ると思うわけです
それに比べて、家康が戦場で暗愚な秀秋を叱り飛ばして、「正しい道」に走らせた…というエピソードは、あまりに劇的である意味「安っぽい」「分かりやす過ぎる」と感じます
そこに違和感を覚え、何かあるのでは?と勘繰っているわけなんです
そして夜桜お八さんがおっしゃる様に、関ヶ原合戦の実相は通説(出典は「徳川実紀」?)とはかけ離れたものである可能性が高くなっているので、さらに徳川家による「創作」の可能性も考慮する必要があります
なので益々この「エピソード」が浮いて見える感じがするんですよね(苦笑
軍記物というのは実にクセモノでして、本質的には面白おかしく書かれた漫談です。ところが面白いだけに庶民の心をつかんでしまう。作り話が史実になって独り歩きを始める。
司馬遼太郎氏という国民的人気作家が、史実と大きくかけ離れた日露戦史を小説として発表したため、乃木希典大将=愚将という、当時の日本人大多数が聞いたらビックリするようなイメージが、あっという間に世間に流布・定着してしまった。恐ろしいことです。
余談ですが、本当に無知・無能だったのは、むしろ大山・児玉が率いる満洲軍総司令部の方だった。戦後に乃木・伊地知をクソミソに貶したのは、満洲軍総司令部にいた若い参謀たち。司馬さんの乃木愚将論は、その受け売りなんですよ。
最近になって漸くその誤りが認識され始め、旅順攻防戦の真実が知られ始めたのは喜ばしいこと。戦後の日本を風靡したアメリカ製の歴史観(東京裁判史観)と左翼史観(マルクス史観)の衰退が、近代日本戦争史の見直しに繋がっている。ここで何度も書かせて頂いた「海軍神話の大ウソを暴く作業」も、その一環だと思う。
たった100年前の戦争ですら、この有様。400年前の戦争なんか、もう好き放題に歪められていると思ってよろしい。
今は新幹線で通り過ぎるだけの関ヶ原。昔、地図を片手に廻った諸将の陣地跡が全部、後世の創作だったとは。
複雑な気分です。
小早川秀秋が何者かに消されたという説は昔から有名。
では、秀秋を殺(や)る同機のある者は誰か。まず第一に疑われるのが、敗北した西軍中枢に近い人々。石田三成の遺臣を含む、西軍勝利のために尽力した武将の関係者たち。
本気で西軍勝利を目指した毛利氏関係者にとっても、秀秋は腹の立つ存在だったでしょう。元々毛利にとっては「どこの馬の骨だか分からない奴」です。
しかし、それを言えば、毛利にとって一番腹立たしいのは、美濃の戦場で家康と裏取引した吉川広家ではなかったか。彼の行動の結果として、毛利は屈辱的な不戦敗の挙句、領土を大幅に削られてしまった。政治は結果責任という視点から言えば、毛利にとって吉川広家は正に「売国奴」である。
殺されるのなら吉川広家かな、とも思えるのですが・・。
第二に豊臣家関係者。「亡き太閤の恩をあれほど受けたくせに、忘恩の徒め」という怒りを抱いた者は多かったでしょう。
第三は、家康。用済みになった旧豊臣系大名粛清の第一号として、一服盛られたかのかもしれない。
世間の人々は「三成の怨霊に取りつかれて狂死したのだ」と噂したようですけれど、案外、これが正しいかなという気もしますね。当時の人々は、現代人には想像できないくらい、神仏や怨霊を信じていましたから。
ロジックでは説明できないもの。
まあ、真相は永遠に闇の中でしょう。
私の手元に『東条英機供述調書』という本があります。当時の日本の総理として、日本の置かれた状況と立場を供述した本です。これを戦犯のたわごとと見るか?当時の日本の立場の証言と見るか?は、読んだ人の判断に任せてみたい本です。
東條大将らに「戦犯」のレッテルを貼ったのは、連合国とりわけアメリカですからね~、日本人じゃないんですよね(笑)。
戦争の計画・遂行を犯罪行為とする国際法は、そもそもありませんでした。第二次大戦後にアメリカが作った「法律もどき」で、ニュルンベルク条例と言います。
A項「平和に対する罪=戦争の計画・遂行」
B項「通常の戦争犯罪(戦時国際法違反)」
C項「人道に対する罪=大量虐殺の遂行」
要するにナチスの征服戦争とユダヤ人狩りを裁くために、あとから作った法律。日本にこれを当てはめるなど、ムチャクチャなのですよ。完全に論理が破綻している。
東條大将は開戦時の総理大臣。敗戦に対する責任はありますが、国際法上の犯罪者では決してない。
本当の戦犯は誰でしょう。歴史をちょっと調べれば答えはすぐ分かると思います。
♪4/4(土)15時開演
@川崎ミューザ
春から縁起がいいのう(笑)
→https://www.kawasaki-sym-hall.jp/sp/calendar/detail.php?id=2585
夜桜お八さんへ、上記の件について、東京裁判のインド代表判事、ラダ・ビノード・パール判事は自らの判決書(日本無罪論)の中で法を適用する者が絶対やってはいけないこととして「法の遡及」を挙げてましたね。
4月4日ですか!まだ決まってないんでわかりませんが、去年と同じくらいの時期なら、横須賀海軍鎮守府公開の時期と重なると思いますので、私も横須賀にいるかも知れません。
一つ補足しますね。
先に挙げた、ナチス指導者を「裁く」ためのニュルンベルク条例を日本にそのまま当てはめたのが、極東国際軍事裁判所条例(東京条例)。
私はA項・B項・C項と書きましたが、これが世間一般で言うA級・B級・C級の正しい書き方(本来の意味)なのです。
A級戦犯という言葉がありますが、世間の人々はA級>B級>C級という意味に捉え、まるで「A級戦犯が一番罪が重いのだろう」と勘違いしていますが、全くの誤りです。
繰り返しますが、正確にはA項、B項、C項で、単なる区別・区分。英語で言えばカテゴリー(category)であって、クラス(等級 class)ではありません。A級・B級・C級という言葉自体が大間違い。
パル判事はインド・コルカタ(カルカッタ)の人です。パル判決文の英語版を持っていますが、本物のキングズ・イングリッシュ、すなわちイギリスで高等教育を受けた人しか書けない格調高い英文。
本物の国際法の専門家でした。
凄い本をお持ちですね
実際読んでみて、東条さんの「言い分」で特に印象深い証言は何かありましたか?
東京裁判は戦勝国が国民世論を慰撫するために「復讐してやったぞ!」とアピールする政治ショーだった印象があります
もし小早川秀秋の死が本当に「暗殺」によるものだったとしたら…
僕も「家康犯人説」に一票です(笑
旧西軍関係者、あるいは毛利家関係者が秀秋に怨念を募らせただろう事は想像に難くないですが、それが「暗殺」という非常手段の行使に結びつくかというと…?
暗殺という後ろめたい手段を使うという事は、暗殺者の側にも「後ろめたい事」があるという事になる
だとすると家康以外に、秀秋関連で何か後ろめたい事がありそうな武将が見当たりません
小早川秀秋暗殺を指示したのは徳川家康、実行犯はその意を受けた毛利家もしくは小早川家中の何者か、あるいは家康の意を受けた小早川家潜伏の「忍びの者」…
歴史探偵を気取るのも楽しいもの(笑
いわゆる関ヶ原合戦に絡んで、結果無様な有様となった毛利家
毛利家中が色々と複雑であったとしても、当主毛利輝元にもっと将器、覇気があったなら結果は違っていただろうと思いますね
もし輝元が伊達政宗や立花宗茂の様な男であったら…合戦の様相は全く別のものになったでしょう
残念な事です(苦笑
クラシックYさんへ、『東条英機供述調書』には当時の総理として、開戦までに至る経緯(三国同盟や日米交渉など)や御前会議の内容などが詳しく供述されてます。かなり、細部まで証言してる東条総理の記憶力とメモによる記録に敬服する次第ですが、やはり供述書の最後の「すなわち、敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります」が印象的でしたね。
東条さんの真面目、几帳面はよく言われてますもんね
その話を聞くと「日本国民に対しての『敗戦責任』ならば間違いなく自分にあるし、進んでその責めを負う。ただし戦争犯罪などと言うものの責任ならば、その様なものは自分は関知しない」と言っている様に聞こえますね
先ずその通りですが(笑